統計検定 準一級 2015年6月 問2

難易度:★☆☆☆☆
必要な知識:二項分布
問われる能力:問題文から、不良品率 p と不良品の個数 r を定めたときの確率が、二項分布によって求められるということを同定し、算出できる能力。二項分布の公式の暗記が前提。

[1]
不良品の個数  r の分布は、不良品率  p 、個数  5 の二項分布  B(5, p) によって求められる。
 p = 0.4 のとき、
 B(5, 0.4) = {}_5 C _r \times 0.4^r \times (1-0.4)^{5-r}
となるので、  r = 2 のとき、
 \begin{eqnarray} {}_5 C _2 \times 0.4^2 \times (1-0.4)^{5-2} &=& \frac{5!}{2!3!} \times 0.4^2 \times 0.6^3 \\ &=& 10 \times 0.16 \times 0.216 \\ &=& 0.3456 \end{eqnarray}

(解答は、小数点第3位を四捨五入して、  0.35 )

[2]
生産者危険は、表より、
 \begin{eqnarray} P(r>=2|p=0.2) &=& P(r=2|p=0.2) + P(r=3|p=0.2) + P(r=4|p=0.2) + P(r=5|p=0.2) \\ &=& 0.20 + 0.05 + 0.01 + 0.00 \\ &=& 0.26 \end{eqnarray}

消費者危険は、表より、
 \begin{eqnarray} P(r<2|p=0.5) &=& P(r=0|p=0.5) + P(r=1|p=0.5) \\ &=& 0.03 + 0.16 \\ &=& 0.19 \end{eqnarray}

生産者危険は、不良品じゃないのに不良品とみなして不合格にしてしまう確率。生産者が不利益を被ることからのネーミング。 
消費者危険は、不良品なのに不良品じゃないとみなして合格にしてしまう確率。消費者が不利益を被ることからのネーミング。

統計検定 準一級 2015年6月 問1

難易度:★☆☆☆☆

必要な知識:条件付確率とベイズの定理

問われる能力:与えられた数値をベイズの定理に当てはめ、必要な値を算出する能力

 

[1]
問題より、

 女子比率 = 0.6
 女子合格率 = 0.4
 男子合格率 = 0.3

また、
 男子比率 + 女子比率 = 1 なので、
 男子比率 = 1-女子比率 = 1 - 0.6 = 0.4

よって、
 \begin{eqnarray} 大学全体の合格率 &=& 女子比率 × 女子合格率 + 男子比率 × 男子合格率 \\ &=& 0.6 × 0.4 + 0.4 × 0.3 \\ &=& 0.24 + 0.12 \\ &=& 0.36 \end{eqnarray} 

[2]
受験者から1人抽出するという試行を考えるとき、
女子である確率を  P(女子) 、合格者である確率を  P(合格) と表すと、
合格者から無作為に1人抽出したときに女子である確率は、

 P(女子|合格)

と表せる。このとき、ベイズの定理を用いて

\begin{eqnarray} P(女子|合格) &=& \frac{P(合格|女子) \times P(女子)}{P(合格)} \\ &=& \frac{女子合格率 \times 女子比率}{大学全体の合格率} \\ &=& \frac{0.4 \times 0.6}{0.36} \\ &=& \frac{2}{3} \end{eqnarray}


 

 

養老孟司さんの『「自分」の壁』を読んだ

養老孟司さんの『「自分」の壁』を読んだ。『バカの壁』同様筆者の独白を編集部の人が文章化するというスタイルの本で、内容は全体としてまとまっているようにも思えるし、喋りたいことをひたすら喋ってるだけのようにも思える。一応主題はタイトル通り「自分とはなにか」で、筆者いわく、生物学的な「自分」とは、地図でいうところの「現在位置を示す矢印」に過ぎないのではないか、とのこと。つまり、なぜヒトが進化の過程において「自分」を認識するに至ったかというと、「自分」と「自分以外」を明確に区別するためであった。よって、「自分」自体は本来的には重要で

なく、むしろ「自分以外」、周囲の方がよっぽど重要である、ということで、にも関わらず欧米の個を重んじる思想を盲信してしまうのはいかがなものか、と述べている。

 

確かに生物学的な「自分」と、我々が「自分」に対して持つ特別意識の間にはずれがあるのかもしれない。ただ、個人的には生物学的な「自分」の意味を、現代社会で生きていく上で「自分」をどう扱うかに結びつける必要はないのではないかと思った。結局、人はそれぞれ自分の幸せのために生きれば良いと思うし、そのために自分を大事にすべきだと思うのならそうすれば良いし、他者を大事にするのが自分の幸せに繋がると考えるのならそうすれば良い。そのあたりは人それぞれということで。

 

筆者は個性を伸ばす教育についてもずっと疑問を投げかけている。そもそも個性って何だろう?筆者がよく例として挙げる「壁に自分の大便を塗りつける精神病患者」は確かに半端ない個性の持ち主だが、誰も憧れはしない。一般に良い意味の個性とは、他者に何かしら良い影響をもたらすような個々人の特性を指す。患者の例では、個性には違いないが、良い個性ではないのだ。では良い個性を身につけるにはどうしたらよいか。筆者も述べている通り、まずは良いとされるものについて徹底的に基礎を学ぶ。そうすれば、自ずと自分特有の考えというものが浮かび上がってくる。型破りなんて言葉も、型を知っていなければ新しい考え(=型破り)は生み出せないことを暗に言っている。よって、ひと通りの基礎を学ばせる従来の教育が、案外個性を伸ばす教育と言えるのかもしれない。

 

ところで、三章に筆者がブータンに行ったときのエピソードがある。

 

食堂で、私の飲み物にハエが入ってきた。現地の人はそれをつまんで、助け出してやったあとに、こちらに向かって、「お前のじいさんだったかもしれないからな」と笑った。

ブータンには、お互いがつながりあっているという教えが生きているのです。

もちろん、本当にハエが私のじいさんのはずがありません。そういうことをあまり大真面目に本気で信じ込むと、それはそれで弊害があるかもしれません。

でも、そういう考え方を持っていることには意味があるのです。

 

これを読むと、人間の認知能力の限界を知った上で、その対処法を考えることの重要性を考えさせられる。ここで本当に大事なのは、人は一人では生きていけず、お互いがつながりあっている、という事を理解することだが、全ての人間がその意図も含めて真に理解することは難しい。そこで、宗教的な、盲目的に信じる力というのが重要になってくる。ロジックは分からないけど、とりあえずその考え方は重要なんだ、ということが広まれば、世界はきっとよくなる。そういった意味で盲信というのは非常に強い力を持つが、一方で非常に危なっかしい面もまた存在する(それは筆者が散々述べている通り。)

 

普段でも、我々は絶えず情報をインプットし、日々の生活に役立てる必要がある。そんなとき、全ての物事を真に理解しようとするといくら時間があっても足りない。よってほとんどの物事について、ある段階で思考停止し、何かを盲信する必要がある。新聞に書いてあるから本当だ、この人が言っているから本当だ、たくさんの人が同じことを言っているから本当だ、というように、何を以て信じるかは人によっても違うし、時と場合にもよるだろう。そういった基準は、個々人の個性を強く反映するように思う。ただ多くの人はこういった選別を無意識に行っており、たまには自分がどういった基準で物事を信じるのか、見つめなおすのも良いかもしれない。

 

「自分」の壁 (新潮新書)

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バカの壁 (新潮新書)

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帰省時のできごと

年末に実家の京都に帰省している時のことです。

 

新幹線は東京駅を出発し、名古屋駅に停車するところでした。

 

名古屋駅から自由席に入ってきた人のうち何人かは席に座れず、立ったまま列車の到着を待つことになりました。

 

始発東京駅からずっと通路側座席に座っていた私は、ふと窓側座席に目をやりました。

 

窓側座席には眠っている女性、そして真ん中の座席にはその女性の荷物。

 

この時点で一つの考えが頭をよぎりました。

 

「女性に荷物を降ろしてもらえば、立っている人が座れるんじゃないか?」

 

そんなことを思いながら周囲を見渡すと前方に二人組の女性を発見。

 

一人は通路側座席に座り、もう一人は側で立ちながら何やら話しています。

 

その時の私にはこんなことを話しているように聞こえました。

 

「あの荷物どけてくれたら座れるのにねw」

 

実際に言ってたかどうかは正直確信が持てないのですが、何となくそう言っているように感じたのです。

 

ヘタレで引っ込み思案な私は、このまま何もしないか、行動を起こすべきかしばらく判断できずにいました。

 

結構長い時間迷っていたように感じましたが、実際は3分程度だったと思います。私は隣の人を起こし、荷物を下げてもらうようお願いしました。そして、二人組女性の立っている方に、座ってもらうよう促しました。

 

その女性は感謝の気持ちを述べ、私の隣に座りました。

 

横でゆったりと読書を楽しむ彼女を見て、あぁちゃんと行動してよかったなと思いました。

 

しかし、少しして、ふと思いました。

 

「二人組女性の席を離してまで、席を譲るべきだったのだろうか…?」

 

彼女らにとって、「二人とも座ること>二人で話すこと」であれば良かったのですが、果たして本当にそうだったのか。(上述の二人の会話は聞き間違いだったのかもしれないし)

 

ここで、名古屋から京都までの時間を考えると40分近くかかり、その間ずっと立ちっぱなしは辛い。やはり譲って正解だったのだ、と思い直すことにしました。

 

・・・

 

と、ここまで考えて、私はつい「あぁっ!」と声をあげそうになりました。

 

それはなぜか?分からない方は少し考えてからスクロールしてください笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうです。席を譲る際、私が二人組女性のうち、座っている方と席を交換すればよかったのです。そうすれば、彼女らは二人で楽しくおしゃべりしながら座って過ごすことが出来たのです。

 

しかし、気づいたときには既に名古屋駅を出発して10分が経過しており、完全に機を逃してしまいました。自分の機転の利かなさに呆れつつも、まぁ人助けしたしいっか、と自己満足に浸るのでした笑 おわり