養老孟司さんの『「自分」の壁』を読んだ

養老孟司さんの『「自分」の壁』を読んだ。『バカの壁』同様筆者の独白を編集部の人が文章化するというスタイルの本で、内容は全体としてまとまっているようにも思えるし、喋りたいことをひたすら喋ってるだけのようにも思える。一応主題はタイトル通り「自分とはなにか」で、筆者いわく、生物学的な「自分」とは、地図でいうところの「現在位置を示す矢印」に過ぎないのではないか、とのこと。つまり、なぜヒトが進化の過程において「自分」を認識するに至ったかというと、「自分」と「自分以外」を明確に区別するためであった。よって、「自分」自体は本来的には重要で

なく、むしろ「自分以外」、周囲の方がよっぽど重要である、ということで、にも関わらず欧米の個を重んじる思想を盲信してしまうのはいかがなものか、と述べている。

 

確かに生物学的な「自分」と、我々が「自分」に対して持つ特別意識の間にはずれがあるのかもしれない。ただ、個人的には生物学的な「自分」の意味を、現代社会で生きていく上で「自分」をどう扱うかに結びつける必要はないのではないかと思った。結局、人はそれぞれ自分の幸せのために生きれば良いと思うし、そのために自分を大事にすべきだと思うのならそうすれば良いし、他者を大事にするのが自分の幸せに繋がると考えるのならそうすれば良い。そのあたりは人それぞれということで。

 

筆者は個性を伸ばす教育についてもずっと疑問を投げかけている。そもそも個性って何だろう?筆者がよく例として挙げる「壁に自分の大便を塗りつける精神病患者」は確かに半端ない個性の持ち主だが、誰も憧れはしない。一般に良い意味の個性とは、他者に何かしら良い影響をもたらすような個々人の特性を指す。患者の例では、個性には違いないが、良い個性ではないのだ。では良い個性を身につけるにはどうしたらよいか。筆者も述べている通り、まずは良いとされるものについて徹底的に基礎を学ぶ。そうすれば、自ずと自分特有の考えというものが浮かび上がってくる。型破りなんて言葉も、型を知っていなければ新しい考え(=型破り)は生み出せないことを暗に言っている。よって、ひと通りの基礎を学ばせる従来の教育が、案外個性を伸ばす教育と言えるのかもしれない。

 

ところで、三章に筆者がブータンに行ったときのエピソードがある。

 

食堂で、私の飲み物にハエが入ってきた。現地の人はそれをつまんで、助け出してやったあとに、こちらに向かって、「お前のじいさんだったかもしれないからな」と笑った。

ブータンには、お互いがつながりあっているという教えが生きているのです。

もちろん、本当にハエが私のじいさんのはずがありません。そういうことをあまり大真面目に本気で信じ込むと、それはそれで弊害があるかもしれません。

でも、そういう考え方を持っていることには意味があるのです。

 

これを読むと、人間の認知能力の限界を知った上で、その対処法を考えることの重要性を考えさせられる。ここで本当に大事なのは、人は一人では生きていけず、お互いがつながりあっている、という事を理解することだが、全ての人間がその意図も含めて真に理解することは難しい。そこで、宗教的な、盲目的に信じる力というのが重要になってくる。ロジックは分からないけど、とりあえずその考え方は重要なんだ、ということが広まれば、世界はきっとよくなる。そういった意味で盲信というのは非常に強い力を持つが、一方で非常に危なっかしい面もまた存在する(それは筆者が散々述べている通り。)

 

普段でも、我々は絶えず情報をインプットし、日々の生活に役立てる必要がある。そんなとき、全ての物事を真に理解しようとするといくら時間があっても足りない。よってほとんどの物事について、ある段階で思考停止し、何かを盲信する必要がある。新聞に書いてあるから本当だ、この人が言っているから本当だ、たくさんの人が同じことを言っているから本当だ、というように、何を以て信じるかは人によっても違うし、時と場合にもよるだろう。そういった基準は、個々人の個性を強く反映するように思う。ただ多くの人はこういった選別を無意識に行っており、たまには自分がどういった基準で物事を信じるのか、見つめなおすのも良いかもしれない。

 

「自分」の壁 (新潮新書)

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バカの壁 (新潮新書)

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